「夢の跡」へ・・・5/2-5 平泉~陸前高田
「・・・国破れて山河あり、城春にして草青みたり
と笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵共が夢の跡 」 (『奥の細道』 松尾芭蕉)
このたびの「陸前高田」行きに際し、思いがけず「平泉」へ。
今から三百数十年前の一六八九年、旧暦の五月十三日(六月二十九日)。
かの俳聖芭蕉が、この地に散った義経を、さらには三代にわたり栄華を極めた奥州藤原氏を思いつつ時の経つのも忘れて涙したという「高館」からは、その当時のままに折から激しく降り続く五月雨を集めた北上川の流れを見下ろすことができました。
五月雨の降り残してや光堂
芭蕉が訪れた際の中尊寺の光堂自体も、現在のそれと同様に覆堂によって守られていたはず。それゆえにこの名句も、芭蕉の心に描かれた情景にほかなりません。
その甲斐あってか、阿弥陀如来を御本尊に、極楽浄土を現世に表す平安仏教美術の最高峰として、内陣の光堂は、今なおまばゆいまでの輝きを放ってそこにありました。
こうして、歴史という長い年月の堆積にあっても
決して風化させまいとする人々の営みが
あるいは、わずか十七音の文芸として、
またあるいは、雨風をしのぐ覆いとなって、
その姿を後世のわたしたちにまで語り継いでくれているのだと
あらためて痛感する寄り道となりました。
そして、いよいよ陸前高田市へ。
津波が襲った市街地は、今なおご覧の通り。
そこにかつて人々の生活があったことを物語る基盤だけを残して
8mも沈下した海岸線には、うずたかく積まれた瓦礫の山が
あたかも防潮堤のように続いていました。
山の手の避難所に暮らす住民が、少しでも外に出て畑仕事を始めようにも
食器や家財道具の切れ端をはじめとする数知れない小さな残置物が混入する田畑、
加えていまだ不明者の命の眠る泥土の上に新たな種を蒔くことにはやはりどうしても抵抗があるとのこと。
大きな重機が見た目の「復興」をある程度実現したとしても、
そこから先のさらなる「復興」には、
緻密で地道な一人一人の手作業が
求められていることをあらためて知らされました。
こうした被災地を
覆い隠してくれる「夏草」もいまだ生えぬこの惨状を
もし今、芭蕉が目の当たりにしたならば
なんと吟じたことでありましょうか。
果たして語る言葉を
流す泪を持ち得たでありましょうか。
少なくとも絶句するしかないわたしたちに
市内にある
普門寺の住職さんは・・・
百歳を越えて今なお元気に言葉を紡ぎ出していらっしゃる
あの柴田トヨさんの詩を贈ってくださいました。
教わる
母に縫い物を教わりました
連れあいには辛抱を
教わりました
倅は詩を書くことを
教えてくれました
みんな 私には
役立ちました
そして今
人生の終わりに
人間のやさしさを
震災で教わったのです
生きていて よかった
(柴田トヨ 第二詩集『百歳』より)
そして、昨晩のこと。
就活中の長男からそれとなく
蕎麦でも食いに行かないかと誘われ・・・。
席に着くなり
「・・・で、どうだった?」
と息子。
見て聞いて
感じたままを
語りました。
さすがに置いてないだろうなあとは思いながらも
お品書きの中に
陸前高田のにごりの銘酒、
「酔仙」の「雪っこ」 を探しつつ・・・
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